向こう側からの報道
朝の「子豚のしっぽ」です。近所の銀杏が「黄葉」し始めました。この木の葉が落ちると、生き生きした緑はサザンカとヒマラヤ杉ぐらいでしょうか。朝早く、窓辺で雀たちが騒いでいます。
11/08子豚でライカのことをちょっと書きましたが、実は子豚は中学・高校のころには(無謀にも)本気になって写真でメシを食ってやろうと考えていた、ことがありました。ホンキといっても今となりましたら知恵熱みたいなものだったなぁとハズカシくもあります。
森山大道さんや細江英光さんなどの作品を真似して、学校の現像室を「占領」し、酢酸臭にむせながら全紙の焼きに夢中になっていた、とよくあるマセガキ・写真少年だったのですね。
しかしもっと惹かれたのは澤田教一さんや一ノ瀬泰造さんたちのベトナム戦争の写真でした。当時の戦争報道は今に比べれば自由であったようですが、その代償はこのお二人を失ったように大変重いものでした。私は彼らの、物言わぬ写真には真実が宿っていると、そしてそれは今も真実を語っていると思っています。
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北朝鮮による拉致事件・疑惑報道にはその非道と、被害にあわれた、あわれているだろう方々の四半世紀の時間の重さを改めて感じます。
それらを私たちは日々の報道から知ることができるのですが「週刊金曜日の報道」の報道を境にして、私にはそのあり方と「読み方」みたいなものに違和感を感じるようになりました。
週刊金曜日の報道にご家族・親族の方が配慮を求めるのは当然だとしても、そこに伝えるべきことがあれば伝えようとするのが報道人としての使命であり、その否定は報道の使命=存在価値を放棄するものであろうと私は思いますが「私ならこうした」的な他人事的・事なかれ的なメディアが伝える発言を聞くにつけ「では、あなたにそのようにしてもらいた」と私は思うことしばしです。
「向こう側からの報道」という意味で週刊金曜日の報道が大きなジレンマを持っていることにはっきりと意見を言ったのは、私の知る限りでは筑紫哲也さんと岸井成格さんぐらいです。
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ある小学校(だったと思うのですが)の授業で「嘘の作文」を生徒さんに書いてもらう授業があるそうです。
なぜそうするのかというと、そのひとつは「書いてあるものを疑う」ことを覚える、だったと思います。今風に言えばメディア・リテラシーの一環ということになるのでしょう。
情報にはその伝わる過程で「ある意味」がどうしても加味されてしまうものですが、そのような情報の「読み方」があるということを子供たちに教える、というものだったと思います。
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狂牛病、JCO、原発など「絶対にあり得ない」ことが「あって」から豆腐一丁買うのにも食品表示を改めるような社会で報道(=報じられていること)の真実性は疑わないなどということはナイーブを通り越しているし、そこに何らかの隠れた利害関係があるのだろうと思う=考えるのが常識であろうと私は思います。
なにかとクラい世相を感じますが、そこのところは結構健全になってきたと私は思います。

