見えざる手の中で
昼の「子豚のしっぽ」です。近所に7匹、猫がいます。それぞれ個性的な顔をしています。夕方、少し暗くなり始めると決まった場所に集まるようです。
その「集会」に参加したことがありますが、目線を外しながらしゃべるでもなく、ただ静かに佇んでいるというだけに見えるのですがところどころに「猫作法」があるようでなんとも面白いなと思います。
そこには猫の生活信条といいましょうか、「付和雷同しない」「個として生きる」とでもいったことがそのサバイバルの原点にあって、それがどうも「じっと見つめる」あの猫の目の冷ややかさを生んでいるのではないかな、などど思ったりします。
彼らの空間感覚にもそれはあるようで、どうもそのテリトリーには明確な線引きがあるようで回廊のような通路がそれを結んでいるようですが、そこはいわば勢力図が交差する場所のようでかなり用心深く通過しているな、と植え込みの通路Aをのぞき込む「クロチビ」君のネコナデ肩を見ながら思ったりします。
生き物全般はその身体能力を発達させて自分の生活環境を居心地の良い快適なものにしてきた歴史があると思いますが、人間のように「デザイン」した空間を自ら作り出すようなものはかなり少数派ではないかと感じます。
たとえば「テーマパーク=遊園地」。山、海、怪獣、ライオン、ミッキーマウス、冒険、ロマンス、休息、フライドポテト等々、何でも揃っています、あるデザインの元に。
猫先輩に話が聞けたら面白いなと思いますがどーも「子豚」には居心地がよろしくない。なぜかなと考えてみるとそこにはたった一つ、あるものが欠けているのです。ある意匠が排除しようと努力したもの、それは「危険(危機)」というものだったのではないかな。
身体的にも「精神的」にも危険が徹底的にが排除された「世界」にいるということの代償の一番大きいものは、その意匠を気づかないこと(その意匠を考えた人や組織の存在に気づかないこと)であると思われます。
−■−
なぜ、この国の政治・経済が混迷するのか。なぜ有事法なのか。なぜ個人情報法なのか。なぜ住基ネットなのか。ひとつひとつの事柄が何かのデザインに基づいているのではないか、見えざる手の中で進行しているのではないかと私は感じます。
2002年は戦争の年にする、先制攻撃もする、核攻撃もする、という意匠の存在をどうも忘れているいるのか、忘れている「ふり」をしているのか、この国の混迷ぶりもかなり「意」に添ったものではないか、などとも勘ぐってしまいます。
その意味でW杯の熱狂は意味深長です。この時代の「コロッセウム」の外側にある無関心と享楽の発達は、現にある悲惨と忍び寄る戦乱とを覆い隠すことが出来たのでしょうか?
- ゴドーを待ちながら
- サミュエル・ベケット
「…だから難しいことを考えるのはよそう…楽しいことだけ考えよう……」と、うろ覚えで間違えているかもしれませんがこの戯曲のセリフはこう続いていたと思います。見えざる手は何かを「想像すること」も巧妙に取り除いている、ようです。

