朝顔、共に生きるための未来
朝のゴミ出しのついでに朝顔の花を見てきました。7月中のつぼみから咲いたのは3つでした。猛暑と小雨の影響でしょうか、葉も小さく蔓も弱々しい「区間」では実を結ぶという大変そうな仕事をじっと我慢していたのだなと思いましたが8月の区間は一転、葉も蔓も力強くて毎日大きな花が咲いていて、朝顔の秘められた力にちょっと感心してしまいました。
「歴史」を朝顔の蔓に例えるなら、決して均一には葉は付かず、美しい花がたくさん付くとも限らないけれども、総体として命の目的というようなものを辿って伸びて行くように思えます。「靖国問題」で明らかになっていることは敗戦後、少しずつ咲いてきた謝罪と和解への「小さな花」を摘み取ってしまうような愚かさと、「共に生きるための未来」を自分たちの政治的利益へ導きたい少なからぬ人達がいることですが、その努力はどう見ても朝顔の蔓に桜が咲いているようなものに私には思えます。
近隣諸国からの声を「(我々は)侮られている」と聴くその人達にとっても総体としての歴史は変えようはなく、過去を十二分に受け止められない心根でもって未来に人を導くことが出来るのか、その様な人達に「生きる、働く、暮らす」ことの重要な決定を任せてよいのか、ラジオのニュースを聴きながら、改めて私は考えてしまいました。
私は今日を「終わらない終戦」の日として記憶しようと思います。おそらく56年前にも風に揺れて咲いていた朝顔の花と共に。
追記:「終わらない戦後」を「終わらない終戦」と書き換えました。もう1度、読み返してみるとこちらの方が気持的に合っているようです。(8.16)

