放蕩息子の物語(ある若者に)
昼過ぎの「子豚のしっぽ」です。サイト閉鎖中(10-31から11-03まで)ですがこのコーナーは続いています。
私が好きな物語に、聖書の中の「放蕩息子」の話しがあります。私はキリスト者ではありませんので、そういった方々の思いを間違えなく受け継ぐのでもなければ伝えることもできません。日々、信仰生活をしているわけではないので不遜かも知れません。
けれどもこの物語に強く惹かれるものがあります。
物語は大体がこのようだったと思います。
ある豊かな家族の兄弟のうち、弟が父に自分が相続するであろう財産を分けてもらい家を出た。弟は放蕩の限りを尽くして金を使い果たしてしまう。
誰も彼に見向きもしなかった。食べるものを恵んでくれるものはいない。
我に返った彼は出奔した故郷を思い出しながら、父の元で使用人になって働けるように父に頼もうと決意して家に帰り着く。
父はぼろぼろになって帰ってきた息子に良い服や指輪を与え、牛を屠って宴を開き、息子の帰還を祝った。
畑で働いていた兄は父に、私は父さんに使えているのに友人との宴のために子羊さえ分け与えてくれない。親不孝のかぎりを尽くした弟をなぜ迎え入れ宴をするのか、と問うた。
すると父はもう一人の息子にこう言いました。私が死ねばそれはすべておまえのものだ。
どこかへ行ってしまって死んでいたかも知れない、この世でただ一人のおまえの弟が生きて返ったのだから、こうして楽しみ喜ぶのは当然ではないか、と。
いつの時でも、どのようなところでも「2人の若者(息子)」たちはいるのだろうと私は思います。
世間からみれば、この兄の方が良い若者であろうと思われます。しかしながら若さ故の分別、思慮の足りなさの結果が眉をひそめるような失敗と深い悲しみを生んでしまったとしても、彼らは「悪い若者」として忘れ去られてしまうのかというとそうでもないだろうと思います。
歴史をふり返ればその曲がり角ごとに若者がいて、その時代から見渡せば、ほぼ後者の側にいた事。また、決まって孤立していたことを私は忘れないようにしたいと思います。
この物語で、父親は兄弟を怒ってはいないように思えます。世間一般の善悪よりも親子の絆を上位に置いているところが切なくもあり、好きでもあり、また私をほっとさせます。

