見えざる手のひらの上で
それは理想論(=書生論)だ、と言う時の現実論者が忘れているのは、理想と現実のギャップを感じながら妥当なところで営まれている「暮らし」ではないだろうか?
そういう曖昧なところを二元論で単純化すると元気になる政治家、会社経営者、あるいは評論家な人達をテレビで見ていると気が滅入る。
ただし、そういう配役はカモフラージュではないかと私は疑っている。
語らない多数派の凪いだ水面に投げ込まれる石ころが波紋を広げたところで、前述のデータマイニング等で「政策マーケティング」された新たな劇場が知らないところで粛々と用意されているのだと思う。
そしてそれらはワールドカップの実況や大きな事件の報道やどうでもいい話題の合間に埋め込まれて、人々の記憶の底に埋もれて気が付いた時には取り返しがつかない既成事実になるように提供される。
そのような方法で「暮らし」は切り取られ、ささやかな地域社会や連帯、親と子の絆さえもが壊されて行き着く先は、選ばれた(誰に?)ほんの一握りの人々のための「地上の楽園」なのだろう、か…。
Fxxx You !!



